「救い」を得るには

あっという間に10月になってしまい、今年の終わりも見えてきました。

そんな時の速さとは逆に、どうにも緩慢な感じで閉塞しているような気力がそげてしまうような、、、という感覚もあります。

自分自身の中の穏やかさを感じて新たな世界とか変化とかを実感するものの、周りを見渡せば相変わらずのひどい有様にうんざりしている方も多いかもしれません。

今日はそんな時でも、夢や未来や他の星や瞑想の中に逃避するのではなく、今のこの時を生ききるための「救い」についてのお話しです。

 

*

今の世界を表現しますと、次のようにいえます。

”古い世界の輪の回し手は既にいないのに、惰性で回り続けている”

 

ローマ神話には、人間の運命の車輪を司るフォルトゥーナ(Fortuna)という女神がいまして、運命(Fortune)の語源ともいわれています。

タロットにも運命の輪というカードがありますが、その元だともいわれます。
この輪というのが、今の世界の状況を説明するのにちょうどいいと思いました。

 

古い世界を回していた仕組みはもうその機能を失っていますが、輪は急には止まらずだらだらと回り続けています。

だらだらと回る輪は明日止まるかもしれないし、何十年何百年もっと先になるかもしれない。
止まる前に、車輪そのものが崩れ落ちてしまうかもしれない。

という感じです。

輪が止まったとき、あるいは崩れ落ちたとき、何が起こるのかはだれにもわからないし、いつ起こるのかもわかりません。

 

じゃあ、新しい世界はどうなってるの、といいますと、こちらは古い世界の行く末よりももっと不確かです。

地球自体のエネルギー状態が変わっていくという大筋はあっても、実際に人々が直面する現実世界がどうなるのかは人のあり方が大きく関わるため、誰にもわかりません。

こんな明日どうなるのかもわからない世の中で、こんな地球でどう生きていけばいいのか、というのが今日の本題です。

そして既に明かしているとおり、「救い」は確かにありますので安心して続きをお読みください。
「逃避」ではなく「救い」です。

 

*

地球はかつて人類が経験したことのない局面にありますが、人々が直面している状況としてはこれまでの歴史のほうがよほどハードでした。

ですが、そういう中でも救いはあり、それが人々を支えてきたのです。

 

日本で大きな混乱と転換のときというと、平安から鎌倉、つまり貴族社会から武家社会への切り替わりの時代があげられます。

法然の浄土宗からはじまった鎌倉仏教の波は、それまで「救いようがない」とされてきた武士や庶民に救いを与えました。
だからこそ、形骸化したとはいえ今にずっと続くような広がりをみせたわけです。

 

比較的最近の話では、ナチスによって強制収容所に送られたユダヤの人々があげられます。

過酷な状況によって、ガス室に送られるまでもなく次々と人々が亡くなっていく中で、ユダヤ教の祭司がいた房では生き延びた人々が多かったそうです。

 

組織宗教というのはとかく悪い点ばかり目立ちますが、それは人間が歪めてしまっただけで、元の元を見れば、そこには信仰による確かな救いがある、ということがわかります。

といっても、必ず宗教が必要なのではありません。
肝心なのは、信仰です。

 

宗教は、信仰を通じて確かな救いを人々にもたらす様々な手段のうちのひとつにしか過ぎないのです。
これこそ、といいますか、これだけが宗教の本来の役割であったのです。

この役割を多くの人が見失っているために、極端に盲信したり、逆に宗教のすべてを拒絶したりしてしまうわけです。

、、、と、人がしでかした誤りをあげているときりがないので、このへんで終わらせまして、本題に戻ります。

 

救いをもたらすのは信仰ですが、では、信仰とは何か。

それは、

「人が理解できない何かがある」

という確信です。

 

「人が理解できない何か」とは、絶対的真理であり、仏や神や無、タオ、大いなるもの、完全なるもの、ひとつなるものなどといわれてきたものです。

人の認識の範囲外、理解の範囲外にあるもの、それが確かにあるのだと信じること、そして常にそのことに心を向け続けることが、信仰の本質なのです。

それを多くの人がわかりやすいように、実践しやすいような形に整えたのが伝統宗教などの教えだといえます。

 

ところで、スピリチュアルに興味がある人ならば、「人が理解できない何か」があるということはほぼ信じているのではないかと思われます。

ところが、ほとんどの人は惑っているようにしか見えません。
それはなぜかといえば、救いが機能していないために心の底から安心していないからです。

 

ではなぜ救いが機能していないのか。

それは、「人が理解できない何か」つまり絶対的真理に心を向け続けることができずに、相対的世界のあれこれに心を奪われているからです。

 

法然はこんなことをいいました。

「戒律を守れるのであればそれに越したことはないが今の世の中では難しい。
大事なのは念仏を唱えることで、念仏を唱え続けるなら何をしていてもいいのだ」

真理に心を向け続けながら日常のごく普通の生活を送ればそれでいい。
そう、いっているのです。

 

ところが、すぐに歪めるのがクセになっている人間という生き物は、「念仏」を第一とせずに「何をしてもいい」を第一としてしまうわけです。

そういう反社会的態度によって浄土宗が批判の的になり、法然自身も流罪に処せられてしまったのですね。

そして、法然の意向を無視した人々と同じように、今スピリチュアルに興味があり、真理があるのだと思っている人のほとんどが、真理を第一とせずに相対的世界でのあれこれを第一としてしまっているのです。

 

自分では真理に心を向けているつもりの人でも、真理そのものではなく自分で理解可能なものにすり替えています。
たとえ正しく思えても、理解できるということは、相対的世界のあれこれのひとつでしかありません。

禅ではイメージとして出て来るものを魔境として退けますが、具体的なイメージだけではなく光だったり、イメージを伴わない感覚だけのもの、そしてこれが最も紛らわしいのですが「概念」でさえも、魔境であり相対的世界のあれこれのひとつなのです。

 

引き寄せ、願望実現、ヒーリング、修行、あるいはどこかの星に還ること、、、

興味を惹かれるものは人それぞれ、やることも人それぞれですから、それはそれでいいのです。
ですが、それらを第一にしてしまったら、歪んだまま進んでしまうことになります。

進むどころか、根本の根本をスルーしているのですから、まったく変わらず同じことの繰り返しになってしまいます。

 

だからこそ、前回天童からのメッセージで

”ずっと昔から
ずっと同じことを繰り返している”

といわれてしまうのですね。

 

*

始めに申し上げたように、今はなかなかハードな状況です。

ですが、そういう状況でも、自分自身の中に、あらゆるところに、どんな時でも、穏やかさと静けさを感じさせてくれる確かな救いはあるのです。

 

真理そのものを知るまでは、 ―この「知る」は通常の認識を超えた「般若、智慧、sophia」といわれるものですが― それまでは、救いがなければ釈迦が苦しかないといった人生を過ごすのは困難です。

だから人は困難から目をそらし、逃げようとします。

真理に心を向けることなしに出家したり瞑想に励んだり、あるいは地球人より高い段階と思われている異星人や天界人になったとしても、それでは「何も変わらない」のです。

 

ですから、救いをもたらすほんものの信仰を得てください。
ただ真理にのみ心を向け続けようとしましょう。

真理は絶対的であるがゆえに、相対的世界における努力とは何の関係もありませんが、信仰も救いも相対的世界の範囲内にあります。

ということは、得ようと思えば得られます。
 

 

夢を見るのではなく、あるいは夢からも現実からも目をそらして虚無に陥ることなく―

辛いことも楽しいこともあるこの日常を、目を開けたまま過ごしていってください。
ただ、真理のみに心を向け続けていこうと思いつつ。

これが、今私がみなさんにいえる精一杯です。

 


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