┃悟りの要訣―述語ではなく主語が問題・「ある」ということ・真の恩恵とは

ここでは、悟りに関する肝要な事項についてお話しします。

悟りについての表現は様々ですが、「真理そのものであること」で、宗教的表現では「神あるいは仏(ブッダ)としてあること」といえます。

 

1.述語ではなく主語が問題

悟りというと、そんなことは自分には到底無理だし、関係ないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、実際悟りというのは人間の本質・本性そのものを見出すことといえるのですから、すべての人に関係があることです。

そして、真の幸福・浄福、恩恵、平安、涅槃とは、誰もがその本質として持っていながら隠されているものとの再会であり再統合であり再認識です。

 

そしてこれが一番肝心なことですが、この真の幸福を味わわない限り、私たち人間の根底から発する渇望感は止まらないということです。

引き寄せようがアセンションしようが、真理でない限りはずっと不満足が残ります。
それなら、真理に心を向けるしかありません。

 

人が悟るために一番障害になっているのは、「障害をどうにかすれば悟れる」という勘違いです。

煩悩を滅して悟りに至る、と昔々からいわれてきましたし、またその反動として、煩悩を肯定してそれを起爆剤として悟りに達する、という方法も考え出されてきました。

 

ですが、これはどちらも的外れなのです。
煩悩に苦しむのも、滅するのも、活用するのも、すべて「自分」であるからです。

主語と述語で説明するとわかりやすいと思います。

これまでは、私が「◯◯した」、私が「◯◯と感じた」、という述語の部分が「悪」であると判定されたときにはそれを滅しようとし、「善」と判定されたときには増幅しようとしてきました。

 

ですが、逆なのです。

述語の部分、つまりこれまで人が必死になって殲滅しようとしてきた煩悩、あるいは必死になって積み上げようとしてきた善、それはどうでもいいことだったのです。

ほんとうに必要なのは、主語を無くすことです。

あえて主語を使うとすれば、限定的な「私」ではなく、「全体性」「神」「仏」とか、聖書での神の言葉「私はある」の『私』です。

 

述語ではなく、主語に注目すべきだったのです。

それなのに、これまで人々は見当違いの努力をしてきました。
述語に注目していたがゆえに、「何をして何を得るか」ということばかりに目が奪われていたのです。

結果を求めて何らかの行為をすること(作為)によって、「よりよい自分になれる」という強烈な集団催眠にかかっているといえます。

 

作為によって得られるものを否定するのではありません。
その努力によって人格が高まることもありますし、よりクリアにものごとを見れるようになったりもします。

ですが、昔から成されてきた修行の成果というのは、人格・霊格を高めることによって真理に心を向けやすくなるという一点だけです。

 

修行、つまり行為によって悟りを得られるのではありません。

なぜなら行為は「私」という主体なしには成立しないものだからです。
ここをきちんと把握しておかないと、ずっと勘違いしたままになってしまいます。

 

*
「私」を無くすことによって、のっぺらぼうな人間になるわけではありません。
これはあくまでも人の根底部分、霊的な核心部分においてのことだからです。

悟ったからといって、その人が本来人として持っている性質が変わるわけではありません。
(変わることもありますが、それはそうなるからそうなっただけです)

 

「私」が無くなったとしても、泣き、笑い、楽しみ、ときには苦しむこともあるかもしれません。
ブッダでさえも、彼の息子についてあれこれ心配していたのです。

しかしそれは、中世の神秘主義者マイスター・エックハルトの言葉を借りれば「外なる人」に起こることであって、霊性の根本である「内なる人」にはまったく関わりのないことなのです。

 

ところが多くの人は外なる人と内なる人をごっちゃにしていて、悟った人を分かりやすい型にはめようとします。
というのも、いつでも人は「自分が理解できる範囲」を求めるからです。

だからこそ、瞑想での特定の状態や、日常における態度や、あるいは超常的な力などという認識可能な基準をあてはめようとするのです。

 

しかし、当然ながら真の悟りというものは認識の外側にあります。
したがって、認識の内側では判断しようがありませんし、行為によって得られるものでもありません。

こんなことは誰でも知識としてはわかっているはずなのに、いざとなると認識内に収めようとするのが人の習性であり、しかもそのことに気づこうとしないのです。

 

ここでひとつ気をつけたいのは、目や耳に入ってきたものを頭で理解するだけでなく、瞑想時などにおける霊的・超常的なものも、認識の内側にあるということです。

霊的に得たものをすぐに真理と結びつけてしまうのは、スピリチュアルにおける大きな勘違いのひとつです。

 

2.「ある」ということ

と、ここまで書いておいて何なのですが、実際はその人それぞれ自分自身に起きること、思うこと、そのままでいいのです。

というのも、「そのようであること」が、正しいという言葉をあえて使いますと、「正しい」のです。

 

どれだけ回り道のように見えたとしても、回り道であることすら気づいていないとしても、気づきながらも抜けられないとしても、それはそれでいいのです。

そうなっているということは、よくいわれるような苦労が後々宝になる、とうことでもなく、ただたんに、「そうなっているからそうなっている」というだけです。

ほんとうに、「それだけ」なのです。

 

じゃあ、人生に何の意味があるのか、と絶望するかもしれませんが、このあたりがまたミソです。

人生に何の意味も目的も、使命とかいわれるようなものも、実際は何もないことを受け入れることができたとき、「私」が無くなっているといえます。

ですから、今現在においては、作為に奔走していても、意味を求めていても、あるいは意味を見い出せなくて虚しくなっていても、「私」が大好きでも、それはそれでいいのです。

 

ほんとうに、ここまで書いておいて何なのですが、すべての人がそのようになるときにはそのようになるのですから、私があれこれと書くまでもないことだったりします。

こういう言い方は誤解を招くかもしれませんが、ほんとうに「うまくできてる」のです。

 

*
ですから、どうかみなさんには、あまりあれこれ考えたり意味づけしたりせず、ただ生きていっていただきたい、といいたいのです。

「そうなっている」だけですので。
これを聖書で神は「私はある」といったのですが。

真理を見出したものだけが「私はある(I AM)」、「ありのまま」なのではなく、たとえどのような人であろうとも、そうなっている限りはただ「ある」でOKだ、ということです。

 

ただ、ひとつ注意しなくてはならないのは、これは自己肯定ではないということです。
なぜなら「自己」は無くすべき幻だからです。

自己肯定が有効なのは、これまでの人間の習慣であまりに自己否定が強かったからです。
一般的な「あるがまま」は、たんなる自己肯定なのです。

 

「あるがまま」に限らず、スピリチュアルでよく使われるすべての言葉が、非常に安直な誤魔化しの道具にとなっています。
そのため、かえって人々を真理から遠ざける働きをしていることを、知っておく必要があります。

 

*
肯定・否定、あるいはどちらでもないという、アンケートの答えのような枠を超えたところに真理があります。

枠を超えること、ただあること、私を無くすこと、作為を捨てること。
すべて同じことです。

そしてこれらは当然ながら成し得るものではなく、「恩恵」です。

 

3.真の恩恵とは

「恩恵」とは自分にとって何かいいことが与えられるということではありません。

「神は何もしない」というのは真実なのです。
真の恩恵とは、それぞれがそれぞれそのままであることそのものなのです。

 

つまり、ただその人がそのままであることそのものが、まさに恩恵であるということです。
とするならば、何をあれこれと作為を働かせ自分にとっていいことを得ようとする必要があるでしょうか。

 

私が過去生においてもっとも悟りに近かったときはキリスト者だったのですが、最後の最後にどうしても作為を捨てることができませんでした。

自分の行為によってよりよい自分になれるという観念から自由になることができなかったのです。

 

なぜなら自分を捨てることさえも自分で成し遂げようとしていたからです。
捨てるはずの自分で何かを成そうとしていたのですから、当然だったのです。

その時すべきだったことは何もなく、ただ真の恩恵を享受するままでよかったのです。

 


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