立春のメッセージ*ほんもののスピリチュアルとは何か:元女神の精霊

精霊と神(多神教の神々)の性質は、神が自然由来のものである場合は同じといえます。
人々にどのように扱われるかの違いだけといえます。

今回の精霊は、形ある人格神として人々にあがめられてきた、つまり人々により制限されてきた女神が、自らの意志でそこから抜けだし、空気のような形のない精霊になったものです。

┃立春のメッセージ:元女神の精霊

苦しみの多かったとき
私は衣を脱いだ

女王の装い
ぬかずく家臣たち

今は何も持たず
何もしていない

何もない
私しかない

それが本当の姿であると
教えてくれたのは誰?

あなたたちの視線 熱望
私を狂わしていたもの

けれど
それこそが

それこそが
私を私にしてくれたもの

苦しみのなかに答えがある
苦しみのなかに最初からあった

愚かだった私を
すくい取ってくれたもの

私がずっと持っていたもの

それを見つけて欲しい
あなたがたにも

私を祀りあげ
私を狂わしたあなたがたに

他にすがろうとするあなたがたに

あなたが他に求めているものを
あなたが既に持っているものを

見つけて欲しい

 

┃ほんもののスピリチュアルとは何か

4日に立春を迎えました。
季節としては真冬で寒いですけれども、陽射しの暖かさや昼が長くなったことに春を感じます。

草木も、少しずつ春の準備をしているようです。
今は植物たちのように、私たち人間も本格的な春を迎える準備の時期です。

 

スピリチュアルの特別なことよりも、毎日をどれだけ率直に誠実に生きていくかのほうが、ずっと「ほんものの」霊性の向上につながります。

春分に大きく花開くための準備は、日々のごく普通の生活の中にこそあります。

 

というのも、そもそも私たち一人ひとりの本来の姿、自然の姿というものが、私たちが無自覚にずっと追い求めてきたものであるからです。

本来の自分に対する渇望が、そして今の自分が本来の自分とは違う役割としての自分になっているという絶望が、人間の根本的な苦しみにつながっています。

 

その根本的な苦しみを紛らわすために、お金とか、地位とか、あるいはスピリチュアルな達成感などを追い求めているわけです。

もう今はそういう時代ではなくなっているのに、あいかわらず前世から引きずってきた、あるいは集団意識としてのとらわれにこだわり続けている人がほとんどです。

 

覚醒とか悟りとか解脱とかいわれる、本来の自分として生きるためには、これまでずっと自分だとしてきた自分を捨て去る必要があります。

ですが、これは誤解されがちですけれども、これまでの自分を捨てることは出家したりして社会の中での自分の役割を放棄することではありません。

 

昔から最高の悟りのためにはそうするべきだとされてきましたので、私たちはただそういうものなんだ、と思い込んでいるだけです。

ですが、もう、時代は変わっています。

 

*

今の時代に生きる私たちができること、誰もが根底に持っている渇望を満たしてあげるためにできることは、ただ今を生きる、ということだけになります。

ただし、無自覚では意味がありません。

無自覚では、既にありのままに生きている植物や赤ちゃんなどと同じことになってしまいます。
それでは、人間としてこの世に生まれてきた意義を果たせません。

 

自分自身の状態を「明らかに」認識したうえで、ありのままであることが、人間としての究極的な意義でありこの宇宙での役割です。

 

それには、本来の自分がどういうものなのか、まずは知識として知る必要があります。

本来の自分、本質といわれるものがなんなのかは表現はいろいろありますが、ここでは絶対的な静けさと平安とします。

自分の本質がそういうものであると知り、そして本質に意識を向けて静けさを感じようとしましょう。
そのうえで、日々やらなければいけないことをしていくのです。

 

完全な覚醒といえるのは、静けさを感じようとしなくても、それを日々のすべてに及ぼそうとしなくても、ごくごくあたりまえに自然にそうである、という状態です。

これが、ほんとうの意味での「ありのまま」ということです。

 

といっても、いつ完全になされるのかは、まさに神のみが知ることですので、どうなることかは私たちにはわかりません。

そもそも、そんなこと絶対に無理!、と思う方もいらっしゃるでしょう。
ですが、そうであろうとすることなら、いつでも可能です。

 

スピリチュアル的に特別なことや、何かの「しるし」を人々は求めます。

ところが、自分自身の本質に焦点をあわせ日々を重ねていくうちには、そういう人を「高揚させるもの」「酔わせるもの」はありません。

 

なぜなら本質そのものは、浮ついた高揚感とか恍惚とかではないからです。

あるとしても、それは本質から少し距離を置いた、本質の現れのひとつとしてでてくるものがもたらすものです。
光とか、神の姿とか、言葉とかが、本質から流れでたものです。

 

キリスト教でいうペルソナ(位格)というのは、まさにそれです。

中世の神秘キリスト者であったマイスター・エックハルトは、ペルソナという人間が把握できるもので満足せずにペルソナを超えた神の本性を求めろ、といっています。

 

本質というのは、ほんもののというのは、極めて地味で、何でもないことのように見えるものです。

無とか空とかいいますが、言葉を超えたもの、認識を超えたものなので、きらびやかに飾り立てることができないからです。

 

ですから、私たちは自信を持って、この何でもない日常を、真正面から生きていきましょう。

それが、ほんもののスピリチュアルです。

 


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